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ダンケルク
2017年09月25日

T0021330p.jpg2000年の「メメント」がアッシにとって『初・クリストファー・ノーラン』だった。(デビュー作の「フォロウィング」は未見)
事件なみの衝撃だった「メメント」の洗礼を受けて以来、この監督の新作映画が楽しみで楽しみでならない。

「インソムニア」や「プレステージ」はハッキリ言って小休止。
しかし、その後の「ダークナイト」トリロジーをはじめ、「インセプション」、「インターステラー」と畳み掛けた「クリストファー・ノーランthe World」は夢が正夢になるような傑作。

この監督。物語を紡ぐセンスは常人とは違う次元にある。
一体どこからあんなインスピレーションが生まれるのだろうか。
型にはまらず、人の予想を裏切る天才クリストファー・ノーランが遂に実話の映画化に挑む。
その題材として選んだのが「ダンケルクの戦い」である。

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ダンケルクとはフランスの北端にある港町(赤丸)。
1940年5月。
ドイツ軍)はベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)とフランス「進攻開始ぃぃぃ!」
「そうはさせるかいぃぃぃ!」連合軍)は、ベルギーのディール川沿いに北上し防御を固める。 これでバッチリOKのはずだったのだが・・・。

ところがドイツ軍の最初の北側で展開した進軍は実は陽動作戦。(フッフッフ、おみゃあらはアホが見る豚のケツだ、ざまーみれ)
ドイツ軍はベルギー南東側からグゥイーン!とドーバー海峡へと一気に西進。 連合軍の背後を遮断してしまうのである。
当初ベルギー南東にあるアルデンヌの森は戦車部隊が通過するのが不可能だと見られていた。
しかしドイツ軍の装甲師団はこれを突破。 連合軍にすれば「聞いてねえよ」である。
「あっ、やべ」と気がついた時には遅かりし。 背後を取られて、袋のネズミがチュー。
ドイツ軍に囲まれた連合軍の逃げ道は海の方だけ。
こうして連合軍はダンケルクへと追いつめられてしまう。
取り残された兵士の数はおよそ40万人。
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この危機的状況にチャーチル英首相は海軍と空軍が連携しての大規模な救出作戦を指示。
でも、40万である。 ニミッツ級航空母艦ぐらいの船を持ってきても5000人しか乗れない。 そもそも、その時代にそんなデカい空母はないが。
いずれにしてもダンケルクの海岸一帯は遠浅の砂浜なので、大きな艦船が接岸することなど不可能。 ここが難儀だった。
そこで駆逐艦だけでなく、イギリスから民間の輸送船や漁船、プレジャーボートなど、小さめの船を総動員してダンケルクへ向かい、ひたすら兵士たちを救出しまくったのだ。
その中には自らの意思で救助に向かった民間人もいたという。
Dunkirk ss

この勇気ある撤退である「ダンケルクの戦い」をクリストファー・ノーランはどう映画化したのか。
彼のことだからストレートなエンタメ作品を撮るはずがないであろうことは百も承知。
ノーランの映画にしては上映時間が106分という短さもひっかかっていたが、フタを開ければ「なるほど」。

戦争映画ともなると、いくらでもエンタメ度の高い大作にできるところである。
だが、この映画は敢然と“娯楽”を拒み、「臨場体験」のピンポイントに絞った「実験アート」に仕立てられている。
◎ 登場人物の内面に踏み込まない
◎ セリフが少ない
◎ いちいち説明しない
◎ ドイツ兵が姿を見せない
◎ 時間経過の違う3つのシークエンスを同時に描く
◎ 切迫感のある音楽が途切れずにかかりっ放し


これまでとは同じことはやらないだろうということは想像がついたが、やはりこの映画はノーランの過去作のどれとも毛色が違う。
観る側はなるだけ早い時間帯から今作のクセをつかみ、潮流に乗っていかないと、退屈したまま106分が過ぎてしまうだろう。
それほど独特だとは言え、フィーリングが合致するのはさほど難しくない・・・はずだが。

60年代の円谷プロの特撮番組「ウルトラQ」では「あなたの目はあなたの体を離れ、この不思議な時間へと入って行くのです」という石坂浩二のナレーションが毎回入る。
「ダンケルク」を観て、この「ウルトラQ」のナレーションを思い出したのだ。
体から離れた目が、いや耳も一緒にこの戦場の映像の中へと引きずり込まれる脅威のエクスペリエンス。
この映画は鑑賞するのではない。 体験するのだ。

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構成は3つのシークエンスに分かれている。
『防波堤』 『海』 『空』
劇中、舞台の異なる3視点が随時切り替わりながら同時に進行していくのだが、それぞれの時間経過は大きく異なる。

ダンケルクの海岸から脱出しようとする青年兵士の“1週間”を描く『防波堤』
兵士を救うために自ら船を出した小型船の船長の“1日”を描く『海』
撤退作戦を援護するためドイツの戦闘機と交戦するパイロットの“1時間”を描く『空』
時間を異にする3篇が106分の中に納められた、ノーランの哲学と様式美が炸裂する陸海空のタイムサスペンス。


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【防波堤:1week】

このシークエンスの主人公はトミー(フィン・ホワイトヘッド)というイギリス兵。
彼がダンケルクの街を、ドイツ兵の銃弾をかいくぐりながら逃げ回る。
どこから銃弾が飛んでくるかもしれない状況下でとにかくやるべきは走ること。
一緒にいた同胞は次々と倒れていく。
ドイツ兵だけでなく、交戦している自軍の銃弾まで飛んでくる。
命からがら自軍のバリケードを越えたトミーはさらに走り、やがて浜辺に辿り着く。
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浜辺では40万人の兵士が足止めを食らっており、救助の船を待つ長い列が海岸沿いを埋め尽くしている。
トミーはどこかの列にまぎれようとするが、並んでいた兵士に「ここはお前の部隊じゃないぞ」と追い払われる。
あてどもなく、トミーは歩きまわる。

このあたりから薄々感づくはずだ。
この青年は、今映画を観ている“自分自身”なのだと。
役名はトミーというありがちなファーストネームしかクレジットされていない。 画面を支配していても決して特別な存在ではなく、大勢の中の普通の一人の人物を、半ば放ったらかしのように画面の中で動かしているだけなのだ。

ここで主人公の情報を得る目的だけのための“誰か”を強引に登場させて会話という名の“インタビュー”をする演出はよくある手だ。
そして主人公は自分の名前は何々で、さっきまではどこそこで何をしていて、こういう理由でここまで来て、今の自分の気持ちはこうであって、こうしたいという目的があるなど、「主人公の情報」がセリフとして説明される。 それが通常のパターンだ。

だがこの映画では彼が何者なのかは皆目分からない。 一切の説明がないままストーリーは進んでいく。
特にその時その時の感情までも表現を避けた演出になっているのは映画として不親切に感じるかもしれないが、その理由はこのキャラクターが他の誰でもない「貴方自身」だからだ。
今戦場にいる貴方が突然独り言をつぶやいて自分の素姓をペラペラしゃべるだろうか。
馴染みのない相手に身の上話を語りまくる余裕と時間があるだろうか。
救助待ちの行列まで来たはいいが、さてここからどうしたらいいのかとウロウロとするだけが関の山。 その姿がこの空間の中に引きずり込まれた自分自身なのだ。
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この映画はズ―――――――ッと音楽がかかったまま。(ラスト近くに数秒ほど途切れるが)
ボリュームの大小はあるが、終始弦楽による、不安を煽ってせっつかせるようなスコアがカウントダウンのごとく奏でられる。
その切迫感と併せて、戦場で聞こえるであろう「音」がリアルな恐怖感を湧きあがらせる。

ダンケルクが安全な場所だからそこにいるのではない。 ただ止む無くその場に追い詰められただけだ。
プロペラの音が聞こえてくる。 味方の戦闘機か、それとも敵機か。
空の彼方から見える機影がメッサーシュミットと識別できた時には、地面に伏せて頭を抱えてジッとするしか為す術はない。
自分の上に爆弾が落ちたらあきらめねばならない。

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トミーはそこら辺に横たわる兵士の死体の中からまだ息がある負傷兵を発見。 と同時に、すぐそばで自分と同じことを考えているであろう青年兵と目が合い、共に行動を起こす。
担架で負傷兵を運べば列に並ばずとも優先的に船に乗せてもらえるというゲスな知恵が働いた彼らはせっせと防波堤へと急ぐ。

トミーと出会う若者もまた何者なのかは説明されない。 後半で名前と国籍が判明するまでは二人ともまともな会話は一切しない。
何が何でもこの地獄から逃れるための心が通じ合った二人の脱出劇は、やり方さえ姑息だが、戦場で生き延びることに清廉でいられるはずがないのは当たり前。

こうして掃海艇に乗り込むことに成功するトミーたちだが、Uボートの魚雷によって撃沈され、救命ボートに乗せてもらえず結局砂浜に戻ってきてしまう。
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他の部隊の兵士たちと共に、干潮により砂浜に取り残された漁船の中に隠れながら満潮の時を待つことに。
満潮を迎えても乗り込んでる人数が多いために船がなかなか浮かない。
ドイツ兵に気づかれて調べられたら万事休すの緊張状態・・・
誰かが船を降りなければならないのかという事態の中でやっと船は浮き上がるのだが、まだまだ地獄は続く。

ドイツ兵の銃弾で穴のあいた船体はたちまち浸水。
燃料油の浮く海へと放り出されたトミーたち。
ここで死ぬのか、それとも助けは来るのか。
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我々観客の目と耳はトミーの目と耳になり、戦場の中でいかに生き延びて脱出するかに意識が支配される。
何と言っても敵の姿が見えないのが一番の恐怖。
なりふり構わぬ逃げと隠れのサバイバルも、ひとつ上手くいったかと思えば敵の攻撃で振り出しに戻ることを繰り返す。
一寸先の見通しがまるで立たない。
いつどこから銃弾や爆弾が降ってきてもおかしくない場所に放り込まれるということとは、これほどまでに恐ろしいのだ。
特に後半の、満潮待ちの漁船の中の緊迫感はただ事ではない。 仲間さえも守ってくれなくなるのだから。

今どうなってるのかが分からない。 1分先のことも分からない。
死なずに済むには、どう考えてどう行動すればいいのかさえも頭が働かなくなる。
この「分からない」状況を非常にリアルな視覚と聴覚で観る者の脳髄に叩きこんでくる、このシークエンスだけでもエグい臨場感。 正直この映画はトミーの脱出劇の1週間を描くシークエンスひとつだけでも良かったのではとも思うが。


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【海:1day】

イギリス軍はダンケルクの遠浅の海岸にまで行ける小型の船を民間から片っぱしから徴用する。
民間人に行けとまでは言わない。 ただ船を借りまくるのだが、中には自ら志願して救助に向かった民間人もいる。

マーク・ライランス演じるミスター・ドーソン。 一応モデルとなった人物はいるが正確には実在の人物ではない。
この映画の中では比較的心情描写がなされているキャラだ。

海軍からの船舶供出に応じつつも、行くのなら自分が行くと独断で舵を取って航海に出る。
彼の息子ピーターと、その友人ジョージも一緒に乗り込んだ。
ダンケルクへ向かう木造製のプレジャーボート「ムーンストーン号」に観客も共に乗り込む、『海』の1日を描くシークエンス。
戦争が軍人だけの戦いでない重みを知ることになる一篇である。

「我々の世代が戦争を始め、子供を戦場に送ったのだ」
彼の一貫した奉仕の行動には確かな動機があり、追々それが明らかになっていく。

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ダンケルクへ向かう洋上で、沈没した船が仰向けになった船底をさらして、その上でじっと座っている男を発見して救助する。
男はかなり疲れた表情で、多くを語ろうとしない。
行き先がダンケルクの港であることを知った男は「あそこには戻りたくない」と怯えて引き返すことを要求する。
それには応じなかったドーソンと揉み合いになり、はずみでジョージが頭を打って重傷を負う。

この謎の男は、トミーが乗った掃海艇に乗っていた将校である。
船がUボートの魚雷によって沈められて、救命ボートに乗り移り、トミーも乗ろうとしたのを拒否した男だ。
その後、救命ボートはメッサーシュミットの空爆で沈められ、九死に一生を得た彼はひどい砲弾ショックに陥っていた。

その後、不時着水していた英国空軍機スピットファイアを発見。
ピーターは「もう死んでる」と言うが、ドーソン「いや生きてる。助けるんだ」と駆けつけて、コックピットから出られなくなっていたパイロットのコリンズを救出する。

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ミスター・ドーソンはこの3ヶ月前に長男を亡くしている。
空軍に所属していた長男はスピットファイアではない旧式のホーカーハリケーンに乗っての戦闘で戦死したのだ。
まだスピットファイアの生産が追いついていない頃だったとはいえ、性能の劣る戦闘機でなければ・・・という思いがあり、ドーソンは軍を信用していない。

息子を送り出したことを悔いる彼は、海に墜ちた戦闘機のもとへどうしても駆けつけたかった。
息子が乗っているような気がしたわけではないが、少しでも息子への罪滅ぼしと供養になるのならと思わず行動したのだった。
だがもちろんそれで終わりではない。
ダンケルクで多くの同胞が助けを待っている。
少しでも多くの命を救い出すことで息子の犠牲は浮かばれ、自らをも赦すことができる。
ドーソンはムーンストーン号の舵を取る。

だが一方で、頭に深い重傷を負っていたジョージの容態は悪くなる一方だった。


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【空:1hour】

私たちの目と耳は空にも移動する。
まるで戦闘機のコックピットの中に侵入した一匹の蠅のようになって、パイロットの顔と正対したり、窓の外を見たり。

ダンケルクの撤退作戦を援護するためにイギリス空軍の戦闘機スピットファイア3機がドーバー海峡上空を飛ぶ。
そのうちの1機に乗ったファリア(トム・ハーディー)の姿を中心に描かれる『空』の1時間。

他の2機には隊長とチーム最年少のコリンズが乗っている。
例によって、このファリアも人物像は全く掘り起こされず、セリフは無線でのチーム同士の最小限のやり取りに終始し、隊長もコリンズも撃墜されてからは一言も発さない。 当たり前と言えば当たり前だが。

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それならばと、ドイツ軍機との空中戦にアトラクションを求めたくなるだろうが、ノーランはそんな娯楽性さえも容赦なく排除した。
敵側の視点がなく、スピットファイアを引いて映すような“神の視点”もない。
あくまでも視点はコックピットの中、あるいは窓の外にくっついた虫か鳥が見ているかのような映像のみという徹底したリアリズム。
それも敵のメッサーシュミットがどこから出現するか油断ならないというサスペンス性に比重をかけた静かな空中戦になっている。

「アイアン・イーグル」や「トップガン」でも見られるひねり込みやロールなどの曲芸もない。
派手な演出はなく、機銃でパパパと撃てば敵機は白い煙を吐いて海にポチャン。
背後を取ればOKのドッグファイトなどは得てしてこれぐらいのそっけないものなのだろう。
だからこそだ。 これぞリアルの真髄。
映画の中で戦闘機に乗れるという真実味のある体験が貴重。 「味気ねーな」なんて言ったらもったいないぞ。

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隊長機とは連絡がつかなくなった。
コリンズの機も撃墜されるが、民間船に救助されているのを見届けたファリアはダンケルクへ向かう。
だがこの時、ファリアの機も交戦がもとで燃料計が故障してしまっていた。
帰投のための燃料を残しておかねばならないのは分かっているのだが、ファリアは燃料が尽きるのも承知で飛び続ける。

漁船が爆撃を受けて沈没しているのを目撃しつつ、ファリアは多くの同胞が取り残されているダンケルクで再びドイツ軍機との戦いに挑む。


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戦争に一度出て行った者は、逃げて帰ってきたら、それこそ自国民から臆病者呼ばわりされるのが昔の時代だった。
だが「ダンケルクの戦い」は敵を倒す戦いではなく、敵から逃げるための戦いである。
ラストシーンでもあるように、生きて帰ってきた者は英雄のように称えられ、国に迎えられた。

この“逃げる戦い”が、困難極まるものでありながら、その状況に軍人だけでなく多くの民間人が自発的に協力して何十万もの兵士が故国の地を踏めたという、ある意味の“勝利”を収めた一大事業。
武器を使う兵士もわずか。 死体もさほど出てこない。 戦争と呼ぶには淡白な戦場でも、生き残ることがどれだけの勇気と幸運を必要とするか。
神さえも差配の手が回せぬほどのサバイバル・フィールド。
戦争は戦争でも、この「生き延びる」戦いを題材に選んだクリストファー・ノーランの狙いはそこなのだろう。

観客の大多数は戦争など行った経験もない。 日本人なら尚更である。
武器を手にして見ず知らずの相手を殺傷したこともない。
そんな過酷なことをいくら映画であろうが、リアリティでもって迫られてもピンとは来ないだろう。 この映画は観客の耳目にそこまで要求しない。
死の恐怖から逃げる。 救いを求める人に手を差し伸べる。 これならば、いざ戦場に放り込まれた、戦争を知らぬ現代人にも叶えられる戦争の体験と成りうる。
ノーランが「ダンケルクの戦い」を映画にチョイスした戦略はそこだ。

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人物の内面を描かないことはひとつの賭けだっただろう。
しかも「戦争映画」にしては迫力もなければ、感動を呼ぶ扇情的なドラマもない。
このアッサリ感は確かに弱点ではある。
これも要するにハマるかハマらないかだ。

何度も記しているように、これはただ事象を追う映画ではない。
視覚と聴覚を同時にフル稼働させて体験する映画だ。
この戦場の映像の中に目と耳を置いていけば、自ずと戦争の怖さが伝わってくる。
どんな戦争映画よりも真に迫っているところがそこなのだ。

ノーランが作ったのは「疑似体験」を完成させたという「結果」を提示した映画ではない。 そもそも結果は観客の反応でしか答えが出ないからであって、これは「途中経過」に過ぎない。
妙な表現になるが、ノーランはこの映画で我々を実験台にしたのだ。
「この絵柄がどう見えるか?」というロールシャッハのようなアプローチでもって、どこの世界でもあるのに、ほとんどの人が知らない戦争をどこまでリアルに見せられるかという実験をやってのけたのだ。
それゆえに、人物描写は廃されているし、直接神経に触れるような音楽を延々と流すのもこれが「実験」だからである。
だから「面白くない」という答えが出る実験サンプルもそれはそれで正しいものなのだ。

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トム・ハーディーやケネス・ブラナー、マーク・ライランスにキリアン・マーフィーと、そこそこのビッグネームはあるが、『防波堤』のシークエンスでは、ほぼ無名の若手を使っているのもリアリティの意図ありきのこと。
「1D」のハリー・スタイルズなど、言われなければ分からないぐらいの扱いだ。

戦争というものが、名もなき者の勇気と犠牲の上にあるのだと考えさせると共に、いよいよキナ臭くなってきたロケットマンの国の状況によっては、名もなき私たちにいよいよ“その時”に何ができるかを考えさせることでもある。
逃げるぞ、アッシは。

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「賢人のお言葉」
 
「恐れおののいてる間は、まだ災いは本格的ではない。 勇敢に立ち向かうべき時は、いよいよ手の下しようがなくなった時だ」
 ウィンストン・チャーチル
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