逆転のトライアングル
2023年03月19日

有名人と庶民。
美男美女と醜男醜女。
高学歴者と低学歴者。
資本家と労働者。
カネ、地位、ルックスなど、世の中のだいたいのことには「持つ者」と「持たざる者」に別れる。
ただ、それも単純な上下格差ではなく、「持つ者」と「持たざる者」の線引きが曖昧なゆえに自ずと細分化されて3つ以上の階層が形成されていく。
「持つ者」の人数は限られ、階層ごとに「持たざる者」の数のベースが広がった三角形が社会の基本的構造である。
しかしこの三角形は、“持っている”額や量でランク付けした形ではない。
実は下の者が上の者を支えてやっている構造とも言えるのだ。
「持たざる者」は「持つ者」が所有しているモノだけを持っていないに過ぎず、「持つ者」でさえも手に入れたことがないモノを持っている可能性が十分に有り、本当に必要なモノを持っているかが試されるとき、その三角形はアッというまにひっくり返るのだ。

ファッションモデル、人気インフルエンサー、財閥の当主、大企業のCEO、IT長者など大金持ちを乗せた豪華客船がクルーズへと出航。
アル中でヤル気ナッシングの船長。 高額チップ目当てに張り切る客室乗務員たち。
そのあまりにアクの強い船旅は、嵐と海賊に襲われて、あえなく船は難破する。
無人島に漂着したが、スマホも食い物も水もない状況下で何も出来ない彼らを支配下に置いたのは、抜群のサバイバルスキルを持ったトイレ清掃係のアジア人女性だった・・・・・
スウェーデンの鬼才リューベン・オストルンド監督。
とっさの状況で取った行動で、一家の主の立場がぐらつく心理劇「フレンチアルプスで起きたこと」(14)。
良識と現実のギャップに翻弄される美術館キュレーターの災難を描いた「ザ・スクエア 思いやりの聖域」(17)。
前二作で抜きん出た人間観察とブラックユーモアを発揮したオストルンド監督の最新作は、現代階級社会を思いっきりイジり倒した風刺劇で、「ザ・スクエア 思いやりの聖域」に続いて二作品連続でカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞という快挙を成し遂げている。
また本作は本年度アカデミー賞でも作品賞、監督賞、脚本賞の3部門にノミネート。
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これより我が耳と目は物語の中に入る・・・・・・・

アッシは一隻の豪華客船に乗り込んだ。
豪華と言ってもクルーズ船としては手頃な大きさだろうか。
客室は十数室あり、30名以上の客が宿泊できる。
乗組員は40名ほど。
この大きさだったら嵐が来たらかなり揺れるだろう。
アッシは三半規管がワンちゃん並みに弱い。
船が揺れたらソッコーで噴射するだろう。 そうならなければいいがと思っていたが残念ながらそうなってしまう。 それについては後ほど。
船にはクルーズに招待された老若男女さまざまな客が乗り込んでいた。
当たり前だが全員顔に「カネ持ってるで」と書かれていた。
さて、アッシは今からこの船で、人の行いや考え方の一般の概念について思わず考えさせられる、皮肉にまみれた事案を何度も見たり聞いたりすることになる・・・・・・・

まずはこの恋人同士の二人。
男の方はファッションモデルをしているカール(ハリス・ディキンソン)。
女性の方もモデルで、人気インフルエンサーでもあるヤヤ(チャールビ・ディーン)。
「なんだおまえ、俺のカノジョをエロい目で見るんじゃねえ」
「やめなさいよカール」
水着姿のベッピンをエロい目で見る。 それが男の常識。
それよりも、この二人の関係はプチ・ギクシャクしている。
モデルとしてはヤヤの方が稼いでいるからだ。
「そりゃ俺も今はオーディションになかなか受からなくて、ちょっと落ち目だけどさ。 だいたいモデルの世界ってのは女性の方が男の3倍稼ぐもんなの」
「そゆことネ」
「男で一番稼ぐショーン・オプリーとかデヴィッド・ギャンディなんか年収100万ドルくらいだけどさ、女性モデルじゃケンダル・ジェンナーなんか1700万ドル稼ぐんだぜ。 どうなのよ?この格差」
どうなのよと言われてもな。

「こないだなんかね、レストランでゴハンしてる時、どっちが払うかで揉めたのよね」
「あれってさ、男が払うってなんで決まってるんだよ。 男女の役割にとらわれるべきじゃないって俺は言ってんの」
「彼って変わってるでしょ?」
いや、お嬢さん、カールくんの言ってることは正しい。と、思う。
「スマホ見ながら化粧直ししてさ。 ウェイターが置いていった伝票を明らかにチラッと見て知らんぷり。 俺が伝票にちょっと触ったら「ありがと」ってきたもんだ。 そりゃないよな」
「だって、払ってくれるんだって思うじゃないのさ」
「なんでそこで、そう思うんだよ。 そこが間違ってんだって。 君は俺の何倍も稼いでることを自覚しているだろ」
「だから私の方がおごれと言いたいの?」
「そんなことを言いたいんじゃないよ」
「じゃ、ナニ?」
「お互いの経済的バランスを考えたら、君の口から「今日の支払いはどうする?」という提案ぐらいあってしかるべきだと思うんだ。 “男が女におごる”のは当たり前なんていうのはフェミニズムでもなければマナーでもない。 男女同権を蔑ろにした悪しき差別文化だよ」
「言ったでしょ。 私を養えない男と付き合うのは時間の無駄」
「これだもんな。 話にならんわ」

この「男が女におごるのは当たり前か問題」については、特に日本では男女の賃金格差という昔からの差別的な企業風土があったから、それに男が気を遣ったのか、ええカッコしたいのかはともかく、女におごってあげることが自然発生した面もある。
それがズルズルきてしまったのだ。
別にいいのだが、ただそれが当たり前と思われちゃ、誰だっていい気はしない。
男が女を養うというのもまた当たり前ではない。
ヤヤはカールより高所得なのに、おごれ・養えと居直るこの態度は、男女同権はもちろんフェミニズムの観点からしても、自分を逆におとしめてるようなもんだと思うのだが。
まあ、仲良くやってくれ、お二人さん。
華やかなモデルの世界に一般社会とは逆転した男女格差があり、顔とスタイルという、みてくれだけに価値を求められる世界でおたくらは頑張ってなさる。 一応、敬意は払おう。

さて次はディミトリ(ズラッコ・ブリッチ)というロシア人だ。
「俺はクソの帝王だ」 それはミナミの帝王より偉いのか?
聞けば有機肥料の会社の経営者だという。
連邦崩壊後に一旗あげた“オルガリヒ”だけあってか、共産主義をやたらにディスっている。
それはいいが、それなりの地位の御方のくせに、不作法で言葉遣いも汚い野暮なおやっさんだ。
「カネは眠らせるなよ」
ウンコで金持ちになった資本主義者のロシア人。
哲学みたいな男だ。 連れてる奥方も若くてきれいですな。
え? 愛人? パワフルだ。 ファンキーだ。 金持ちとはこういうものだ。

ディミトリの正規の奥方のベラ(ズニー・メレス)はというと、裕福であることを惜しげもなくひけらかしている、鼻持ちならぬオバハンである。
旦那が愛人同伴でも意に介していない。 もうそんなことで熱くなるほどの感情もないのだろう。
捨てられる心配はないし、残りの人生を思いっきり浪費して過ごしてやろうとタガが外れたオバハンは下の地位の者を見下したヒマつぶしをおっぱじめた。
「不公平よね。 私は金持ちに望んでなったわけじゃないのに。 あなた方が気の毒で」
アリシアという女性スタッフをつかまえ、プールに入ることを強要する。
勤務中だし、そんなこと出来るわけないアリシアはやんわりと断ろうとするがオバハンは有無を言わせなかった。
「あなたにも優雅な気分を味あわせてあげるわ」
あげくに、乗務員全員にウォータースライダーを使って海に飛び込ませるという余興をリクエスト。
普通ならそんなめんどくさい客の与太が通るはずはないが、通ってしまうのが金持ちの道楽狂宴会と化したクルーズ船。
乗務員が仕事の手を止めてスライダーで海へ次々とダイブするシュールな光景が繰り広げられた。

クルーズに一人で参加している男、ヤルモ(ヘンリク・ドルシン)。
バーで一人で飲みながら、ちょっと離れた席に座った女子二人をチラ見している。
どうする? 声を掛けるか?
いくのか? いかないのか? おっ、いった!
一緒に写真を撮ってもらい、「お礼にロレックスを買ってあげよう」とすこぶる上機嫌である。
「会社を売却したのでカネが腐るほどあるんだよ」
働くことから退いた者が腐るほどカネを持っている。 矛盾とまでは言わない。 そういう社会システムだしな。
立派な資本主義の勝者だ。

上品そうなイギリス人夫妻のウィンストン(オリヴァー・フォード・デイヴィス)と妻のクレメンタイン(アマンダ・ウォーカー)。
こう見えて彼らは武器商人である。
武器製造会社を家族経営している彼らは、国連で地雷が禁止されて売り上げが落ちたことをボヤく。
地雷で死ぬ人がいなくなるということを喜べないのか? そういうものなのだろう。
戦争も銃犯罪もカネから始まる。 人を殺す・殺されることにもお金が動いているのだ。
世界が平和になると潰れるであろう会社を経営し、人が死ねば死ぬほど潤う人生を送る武器商人。
不条理なものだ。
国連のせいで不景気になったことを嘆く英国人ご夫妻だが「夫婦愛で乗り切ったのさ」とノロけなさった。
それはそれは。

一見、「バルジ大作戦」のロバート・ショウを思い出させる客室乗務員のチーフ、ポーラ(ヴィッキ・ベルリン)。
ベリーショートのホワイトヘアーが実にセクシーだ。
客の要求にはまずイエッサー。 とにかく何を言われても「できません」は言わない。断らない。
上のシャツを脱いで作業をしているクルーを見かけたカールが、ヤヤの目を気にして、「あれはいかがなものか」とポーラにご注進した。
何分後かにそのクルーはクビになり、迎えに来たボートで去っていった。
ベラがスタッフ全員にスライダーで海にダイブすることを要求したときはさすがに彼女も目がつり上がったが、なんとかリクエストにお応えした。
おたく、それはいくらなんでも客を甘やかし過ぎじゃないですか?

「羽振りのいいお客様から振る舞われるチップの額はバカになりませんのでね。 この仕事はそれだけが魅力なのです。 今回のクルーズもスタッフを集めて盛大にゲキを飛ばしました。 笑顔を絶やさず高額チップをゲットしましょう! 客が望むなら麻薬でもユニコーンでも!」
麻薬は要らんが、ユニコーンを連れてきてくれるのならお願いしようかと思ったが、どう扱っていいのか分からんので辞めとくことにした。
彼女は心得ている。 カネ持ちには敵わないが、本当に強いのは「お金」なのである。
カネが人を操るのだ。 人をバカにもするし賢くもする。
「心づけ」という言い方は立派たが、資本主義の中に共産主義が出現したかのような、富者が貧者に正規料金外のカネをばらまく文化が世界に均衡をもたらしている。
まったくもって面白い。 考えさせられるのぉ。
ポーラは今宵行われるキャプテンズディナーがうまくいくのかが気がかりでならない。
というのも、肝心の船長殿が早くもできあがっていたからだ。

この船の船長トーマス(ウディ・ハレルソン)は重度のアルのチュー太郎さんである。
出港してからずっと船長室にこもって酒を飲み倒し、すっかりヘベレケになっていた。
ポーラが部屋をノックしても、声はするが出てこようという気配がない。
海で溺れなくとも酒に溺れてるというおもろい船長殿だ。
いよいよディナーも間近というときに、ようやく部屋から出現した船長殿。 大丈夫か? 見た目はしっかりしているが。
だが、船長が現在酔っぱらい進行形というのは日本で言うところの海上運送法違反ではないのか? 操縦してなければかまわないのだろうか? USAはいいのか?
まあ、それはいい。 もっとおもろいのは、この船長殿がマルクス主義者というところだった。

資本主義者のロシア人がいて、今ここにマルキシストのアメリカ人がいる。
これは愉快なことになるぞと思っていたら、案の定、肥やし屋社長ディミトリとアルチュー船長とのイデオロギー対決が始まった。 と言っても、スマホで検索した名言を言い合うという、屁みたいなワードバトルだった。
「『愚か者と議論するな』と、マーク・トウェインは言ってる」
おたくらのことだな。
宴もたけなわ。
発動機船なのに「帆に汚れがついてたわよ」と、アサッテみたいなことを言うオバハンがいたが、ディナーは粛々と行われた・・・と言いたいところだったが。
低気圧の大嵐の中にもろに突入した船はブランコのように揺れた。
えげつない船酔い地獄。 っていうか、とても立っていられない。
船内はあれよあれよと言う間に修羅場となる。
乗り物酔いが生涯の天敵であるアッシは死ぬと思った。 ヲワったと思った。

ベラは盛大に噴射した。
腹の中に入れた豪華な食い物も一回吐き出すとそれはもう汚物である。
トイレに駆け込んだ彼女は逆流した下水にまみれた。
クソの帝王の妻がクソをかぶるという、座布団一枚のような光景だった。
ベラだけではなく、大勢の乗客がゲーゲー吐き倒し、どんぶらこと揺れる船内は人もモノもひっくり返りまくっていた。
大丈夫。 船が沈むことはないと思っていたが、こういうときに限り、泣きっ面に蜂が飛んでくるのだ。
いや、蜂の方がまだマシで、やってきたのは海賊だった。
ルフィやジャック・スパロウのようなエエ奴なら良かったが、現代の海賊にそれは期待できない。

海賊が投げつけた手榴弾によって、武器商人夫婦は吹っ飛んだ。
こればっかりは夫婦愛で乗り越えられなかったようだ。
もしかして自分たちが売ったかもしれない手榴弾で死んだ武器屋さん。
座布団二枚の光景だと感心してる場合ではない。
ボン!と爆発した船はそのまま海の藻屑となった。
アッシは死ぬと思った(その2)。

命からがらゴムボートで脱出した我々は数時間後、どこかの島に流れ着いた。
どうやら無人島っぽい。
大方の乗員乗客は帰らぬ人となり、ヤヤとカール、ディミトリ、ヤルモ、客室乗務員のポーラ、ネルソンという機関士、そして脳卒中の後遺症で「イン デン ヴォルゲン(雲の中)!」の言葉しか話せない女性テレーズの7人が生き残り、この無人島に辿り着いたのだった。
そうか、船長殿は死んだのか。 ディミトリの奥さんも、愛人も。 アリシアも。 気の毒に。
さて、どうする?
クルーズ船が一隻行方不明になればすぐ分かるし、すでに捜索活動が行われてると信じたいが、難航するとしたら何日かかるか。
ともかく身の安全と健康は維持せねばならない。
だが、アッシも含めてサバイバルならお手の物の頼れる人など居そうにもない。
あばれる君が居たらなあ。

ふと見ると、それはもうほとんど船やんけという大きさの救命ボートが流れ着いていた。
大型船舶などには、大抵この密閉型の救命艇が常備されている。
そうだった。 なぜ、これを利用することに頭が働かなかったのか。
そして、この救命艇を利用する機転が利いた賢い人物が中に一人乗り込んでいた。
清掃婦のアビゲイル(ドリー・デ・レオン)というオバサンである。

フィリピンあたりの国籍だろうか。
ぱっと見は冴えないが、サバイバルに関しては抜群のスキルを持った“女あばれる君”だったのだ。 いや、あばれるさんと言った方がいいのか。 まあ、どっちでもいい。
ボート内にある飲料水やポテチを、すぐに無くなってしまいそうなペースでがっついている金持ち連中どもを尻目に、アビゲイルは海に潜り、タコを捕獲して下ごしらえをして、自分で火をおこして調理して食べるのだった。
カネがすべてだと思って生きている人間と、カネが無くても生きていける人間。
またしても、シニカルな対比を目の当たりにしたアッシはちょっと感動してしまった。
世の中はドラマに満ちあふれている。
金持ち連中は、さも当然のようにアビゲイルが自分たちの食料も世話してくれるだろうなというつもりでいたようだ。
だが、アビゲイルは他人の都合のいい協調性を抱くほどお人好しではない。
「もう船は無い。 じゃ私は何? 船ではトイレ係でも、ここでは私がキャプテン」

アッシは思った。
人間にとって大切なことは「生きること」だ。
突き詰めれば結局答えはシンプルなものだ。
そして生きることに関して何が必要か。 その必要なものを持っているか否か。
ただ単純に「いかに生きるか」の世界ではアビゲイルは「持つ者」であり、その他の連中は「持たざる者」だったのだ。
なんという逆転劇。
船が転覆し、そして支配関係も転覆した。
海から陸に上がった生物進化の歴史も刻まれたであろうこの海岸で、今、海から陸に上がった者たちは、進化した一人と進化できなかった多数に分かれたのだ。

「食」で支配権を握ったアビゲイルは救命艇を独占して過ごせる「住」の権利を獲り、なおかつカールを夜の相手として夜な夜な救命艇に招き入れる。
殿様のお手つきの御中﨟(おちゅうろう)の男板である。
ヤヤと食事代をどっちが払うかで揉めてたカールは今、アビゲイルに体を奉仕する代わりに、食事を分け与えられる恩恵を受けていた。
カールは自分を養ってくれる女の方に行き、ヤヤは自分を養えない男に捨てられた。

アビゲイルは別に救世主になったわけではない。
彼女もまた支配者になったのだ。
権力を握ったことに自惚れている彼女は、今やすっかり傲慢な「持つ者」として君臨していた。
しかし、アビゲイルにとって夢のような支配階級に居座るひとときは突然終わりを迎える。
なんとこの無人島は・・・・・

いやあ、一時はどうなるかと思ったが、何はともあれだ。
だが、気がかりなのはアビゲイルがどう出るかだ。
バカなことはするまい。
この島の事実をいずれ誰かが知る。
それとも殺人鬼となって全員殺すか?
そんなことをしても被支配者がいなくなれば、自分は支配者では無くなってしまうからだ。 それくらいは分かるだろう。
やれやれ。
大変な思いをしたが、一方では実に面白いヒエラルキーの均衡が揺らぐ人生劇場を垣間見れて、大いに勉強になった。

一握りの持つ者を頂点とし、持たざる者を底辺に据えた三角構造。
それが逆転した“逆三角形”は所詮アンバランスなので倒れるだけ。
一時、上の階層になったアビゲイルだが、結局少数の持つ者であり、構造自体は上向き三角だったのだ。 それもちっぽけな世界の。
その三角が再び回転する。
人間は人の上に人を作り、人の下に人を作らねば世界を動かせないのだ。
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ヒエラルキーに対するシニカルな対比や、ニヒリズムを込めた人間愚行への冷笑描写が全編至る所に散りばめられており、よく練り尽くされていることに感心してしまう、実に面白い映画だ。
全編を通してみれば、船が難破して無人島に流れ着いた金持ちと清掃婦のヒエラルキーが逆転する後半がメインと思うかもしれぬが、実は本文でも長々と書き連ねたように、船が難破するまでの前半こそが映画全体の3分の2を占めており、そのシークエンスこそが本質的に面白いのだ。

船内の、カネを持っているのが一番偉いのだと思っているエコノミックアニマルの生態をはじめとして、男女間の金銭関係、イデオロギーのブレ、儲かる汚れ仕事、主従関係、貧富格差などなど、他にもこんな細かいところまで?という箇所にわたり、大なり小なりの表現で、暗喩、比喩、揶揄の技が炸裂している。
これまでのオストルンドの作品の中では最も濃厚でメタファーに富み、クセの強さが楽しい作品である。

映画の滑り出しのところで描かれるのは、服の良さのアピールなど無関係で、それを着て歩くモデルの顔がすべてというルッキズム優位のファッション業界のユニークなアプローチである。
ショーの観覧に遅れてやってきたセレブの客のために一般客が席を移動させられるという何気ないシーンが、「割り込み」と「弾き出され」の階層が表現されててニクい。
メッチャ面白かったのは、カールを含めたモデルたちのオーディションで、ブランドによって顔を作るアドバイスを受けるシーンである。
高級ブランドならムッツリとしたケンカ腰のような顔を作り、大衆的なメーカーの場合は親しみを爆発させた笑顔を作れという。

これはバレンシアガ。

これはH&M。
これを「バレンシアガ!」、「H&M!」、「バレンシアガ!」、「H&M!」と何度も反復させられるシーンは「551の蓬莱」を思い出して笑ってしまう。
関西人には分かるコマーシャルなのだ。

551の豚まんがあるとき~

ないとき~

あるとき~

ないとき~
なにしとんねん、こいつら。

なお、ヤヤを演じたチャールビ・ディーンは昨年の8月に32歳という若さで逝去。 これが遺作となった。
細菌による感染症ということらしい。
冥福を祈るばかりである。
「賢人のお言葉」


カール・マルクス
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