他にもこれ観ました 11月編 Part2
2019年12月12日
正式名称「サイバーダインシステムズ・モデル:101シリーズ800」の人間抹殺用アンドロイド、ターミネーターT-800はサラ・コナーの自宅を訪れた。
「やあ、サラ・コナー。 アイルビーバックしてきたよ」
「よくも私の前にツラを出せたもんだね」
「ヒマでヒマで死にそうなんだよ」
「その表現、アンタが使っちゃおかしいよだろ」
「ジョン・コナーを殺したら、途端にやることが何も無くなってしまった」
「今カチンと来たよ。 マジで殺っちゃおうかね」
「君もどうせヒマなんだろ?」
「余計なお世話だよ」
「これから一緒に映画でもどうだ?」
「へぇ~。 ロボットがデートのお誘いかい?」
「ロボットという言い方は適切ではない。 私の正式名称はサイバーダインシステムズモデルいちまるいち「もういいもういい!」
「説明の途中だが」
「けっこうよ。 それにしてもアンタも映画なんか観るんだね」
「映画は大好きだ。 中でも『殺人魚フライングキラー』、『エイリアン2』、『アビス』、『トゥルーライズ』、『タイタニック』、『アバター』は素晴らしい名作だ。 それ以外の映画はカスだ」
「ゴマすりの度が過ぎるね」
「それでは映画館に行こう。 私は人間ではないから入場料は要らないはずだが」
「そんなワケないでしょ。 見た目が人なんだから」
「人間とはなんてセコいんだ」
「セコいのはアンタ」
「ターミネーター:ニューフェイト」
素晴らしい映画だ。 感動のあまりパワーセルが停止しそうになったぞ。 アーノルド・シュワルツェネッガーにアカデミー賞主演男優賞をあげるべきだ。
前半出てこないのに、何言ってんのさ。 じゃあリンダ・ハミルトンが主演女優賞だね。
いや、グレース役のマッケンジー・デイヴィスか、ダニー役のナタリア・レイエスだな。 あとは大根だ。
このボケ。 ケンカ売る気満々だね。
「ターミネーター2」の正当な続編と謳っているが、私は「3」も全然好きだ。 まあ、「4」や「新起動:ジェネシス」をなかったことにしたいという気持ちは分からないではないが。
初期作の面白さの象徴である逃亡劇アクションという原点に立ち返ったのは正解だね。 「2」のあとの舞台背景やキャラなどの設定に多少ゴリ押し的なものはあるけど。
「ターミネーター」の映画はこうでなくっちゃ、というのが前面に出ていて、過去作のオマージュなど遊び心も満載。 続編映画としてはクオリティの高いものになったと私は評価したい。
でも北米の興行成績は期待ほどでもないらしいね。 このままじゃ赤字だよ。 どうするんだい?
私に言われても困る。
「盲目のメロディ ~インド式殺人狂騒曲~」
盲目を装ったピアニストが殺人を目撃したことから巻き起こる騒動を描く、インド映画にしては「歌って踊って」がない珍しいブラックコメディー。
盲目のピアニスト、アーカーシュ。 実は彼はめっちゃ目が見えるのだ。
芸術家としてのインスピレーションを高めるためにそんなことをしてるらしく、今は恋人の父親が経営するレストランでピアノを演奏する毎日を送っていた。
レストランの常連客である俳優のプラモードから、結婚記念日の妻へのサプライズとして演奏を頼まれたアーカーシュはプラモードの自宅を訪れる。
だがアーカーシュは偶然、プラモードが妻シミーと浮気相手の男に殺されるところを見てしまう。
シミーと男がせっせと死体処理をしているそばで、もちろん見えていないフリを貫き通すアーカーシュ。
その後、通報しようと思ったら警察署長こそがプラモードを殺した間男だったので断念。
やがてアーカーシュの盲目を怪しんだシミーは彼に毒を盛り、なんとアーカーシュはガチで目が見えなくなってしまう。
署長から命を狙われて、担ぎ込まれた病院で医師のスワミと知り合ったアーカーシュは、臓器売買に手を染めているスワミと組んでシミーを誘拐して目の手術費用を手に入れようとするのだが・・・。
主人公の「見えているけど見えていないフリ・本当に見えていない」の状況や、被害者と加害者などの「立場の逆転」が相次ぐ乱展開のサスペンスだな。 これはなかなか面白かったぞ。
多少ご都合的な所がない訳じゃない。 そこをいい意味で演出で誤魔化してるね。 冒頭の何のこっちゃ分からないウサギのシーンとかね。
ただあのラストシーンはやり過ぎ感もある。 結局シミーの角膜をもらったのか?と思うが、目の見えない彼が一人で燃えてる車の中からシミーを運び出すなんてできないだろうし。
私はどうも、サングラスをかけてる奴を見たらムカムカするんだけどね。
「グレタ GRETA」
イザベル・ユペールが狂気のストーカー女を演じる衝撃度抜群のサイコスリラー。
ニューヨークでレストランのウェイトレスとして働いているフランシス(クロエ・グレース・モレッツ)はある日、地下鉄の座席に誰かが置き忘れたバッグを発見する。
中には「グレタ・ヒデック」という名のIDカードが入っていた。
駅の遺失物係の窓口が閉まっていたため、後日フランシスはグレタという人物の家を訪ねてバッグを届けに行く。
その家に一人で暮らしている女性グレタ(イザベル・ユペール)から感謝されながら家に招かれたフランシス。
しばらく会話をしながら、母親を亡くしたばかりのフランシスはグレタに母の面影を重ねる。
孤独なグレタに同乗する思いからフランシスは次第に彼女と親密になっていくが、親子ほど歳の離れた友人関係に、ルームメイトのエリカ(マイカ・モンロー)は深入りしないように忠告するがフランシスは気にしない。
ある日、グレタの家に食事に招かられたフランシスは、偶然クローゼットの中に、地下鉄で見つけたものと同じバッグが何個も並んでいるのを発見してしまう。
それぞれのバッグにはグレタのIDカードが入っており、別の女性の名前が記された付箋が張り付けられていた。
どうやらグレタはわざとバッグを忘れて同じことを繰り返しているのだ。
気味が悪くなったフランシスはそれ以来、グレタと関わらないようにするのだが、恐怖の日々はここから始まる。
フランシスに対するグレタの狂気とも言えるストーキング。
一日におびただしい数のメールを送りつけ、勤め先のレストランの外で何時間も待っていたり、フランシスの行くところ行くところでグレタは執拗に待ち伏せする。
このままでは事態は収まらないと思ったフランシスは、グレタに冷静に話し合って自分が悪かったと謝罪しつつ、これから旅行に行くのだと嘘をついて、グレタの気持ちを冷めさせようとする。
しかし、人並み外れたグレタの執念はフランシスをさらなる地獄に追い詰める。
なんだこの女は。 しつこくつきまとう奴は嫌われるぞ。
アンタが言うかね。 それにしてもグレタの怖さはターミネーターといい勝負だね。 角を曲がると廊下にヌーッと立ってるというその姿だけでゾッとさせる負のオーラが凄いね。
「甘い罠」や「ピアニスト」、「エル ELLE」など、イッてる女の役はイザベル・ユペールの十八番だな。 クロエ・グレース・モレッツのビビり方の巧さも怖さに拍車をかけている。
軽~いカンジのキャラかなと思っていたルームメイトのエリカが超ファインプレイ。 年寄りとルームメイトの忠告はちゃんと聞くべきよね。
「ベル・カント とらわれのアリア」
1996年にペルーで起きた日本大使公邸占拠事件からヒントを得て、ゲリラと人質の予期せぬ交流を描いた人間ドラマ。
Amazonベスト・ブック・オブ・ザ・イヤーに輝いたアン・パチェットの小説の映画化で「アバウト・ア・ボーイ」のポール・ワイツが監督を務めている。
ジュリアン・ムーア、渡辺謙、加瀬亮、クリストファー・ランバート、セバスチャン・コッホら国際色豊かな豪華キャスト。
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南米のとある小国の副首相公邸では世界的オペラ歌手ロクサーヌ・コス(ジュリアン・ムーア)のサロン・コンサートが開かれ、多くの要人が出席していた。
工場誘致のために招かれた日本の実業家ホソカワ(渡辺謙)がコスの長年のファンであることから企画されたコンサートだ。
美しいコスの歌声に皆が酔いしれていた時、銃声と共にゲリラたちが乱入。
彼らの目的は大統領の拉致だったが、直前に欠席していた大統領は不在。 振り上げた拳が宙に浮いたままのゲリラたちは、そのまま全員を人質に取り、警官隊に囲まれた公邸内で籠城することになる。
交渉がこう着状態に陥り、軟禁生活が長引くにつれ、公邸では安らぎのような空気が流れ始める。
幽閉される人質と監視するゲリラの間には不思議な絆が芽生え、彼らはこのまま外界と隔絶された世界で生活を続けられたらとすら願うようになる。
だが、この穏やかな日々は永遠に続くはずがないのであった・・・・・
なんともやり切れない話だねえ。 いわゆる「ストックホルム症候群」というやつだろ? テロ行為に走る者を肯定はしないけど、彼らとてもちろん人間と同じ血が流れている。 テロを鎮圧する側も含めて、結局は武力という手段は何一つ解決できないということさ。 人と人との触れ合いの中にこそ、何かが生まれるのさ。
歌手に歌を教わる者。 加瀬亮が演じる通訳と愛し合う女性兵士。 フランス大使と父子のような絆を育む少年兵。 庭ではゲリラと人質たちがサッカーを楽しむ。 食卓でも誰かれ隔てることなく並んで食事をする光景が自然と出来て、人質事件が起きているような現場とは思えない状態になっていくが、これが悲劇として終結せざるを得ないことが分かっているだけに辛い。
オペラ歌手役のジュリアン・ムーアの歌はもちろん吹き替えなんだけど、どうしても違和感が。 あんな声を出せる人じゃないって分かってるという先入観が邪魔をしてしまうね。 そういやアンタが鼻歌ひとつ歌ってるのを聴いたことがないね。
T-800の型には歌うという能力は付加されていない。 歌わなければならないという必然性を感じなければ、歌いたいという感情もない。 そもそも歌をほとんど知らない。 なぜ人間は歌を歌うのか?
その疑問の答えは次の映画にあるよ。
「アナと雪の女王2」
おお、「レリゴー」だな。 それなら知っている。
何がいいかって、前作と同じことはやらないという姿勢がいいね。 「Let It Go」をエンドロールあたりにサービスで流すなんてことをやりそうなもんだけど、一切触れることなく、「前作は前作、2は2」というスタンスで作ってるね。
スケールが格段にアップし、アクション色も濃くなっている。 ストーリーの密度と娯楽性も「1」よりクオリティが高いのではないかな。
エルサになぜ特別な力があるのか?という謎への言及と、エルサの未来に大きく関わる転換点のストーリーは作り手もかなりの冒険に打って出てるし、それが見事に吉と出てるよ。
アナの活躍はもちろんだが、クリストフもオラフもスヴェンも、それぞれバランスよく見せ場が設けられている。
オラフが消えてしまうシーンは泣けたねえ。
人間は泣いたり歌ったり、忙しいものだな。
その歌だけど今回もいい曲が目白押し。 予告編で推されてた「イン・トゥ・ジ・アンノウン」もいいけど、エヴァン・レイチェル・ウッドが歌う「魔法の川の子守唄(All Is Found)」、ジョナサン・グロフの「恋の迷い子(Lost in the Woods)、「ずっとかわらないもの(Some Things Never Change)など、物語を魅力をさらなる高みへ引き上げる名曲揃いよ。
ミュージカル・アニメはやはりディズニーのお家芸であることが不変であることを思い知らされる。 人間が歌を歌う気持ちが分かった。 言葉というもので人に何かを伝えるそれ以上に、エモーショナルな喜怒哀楽の息遣いをプラスして伝えるために音楽は生まれたのだろう。 言葉は脳から生まれ、歌は心から生まれる。 人生を豊かにするツールとして人類の歴史に自然発生した歌は、人間が持つ最も高貴な友であると言える。
「ブライトバーン/恐怖の拡散者」
スーパーマンは、赤ん坊の時に崩壊前のクリプトン星から父親の手で脱出させられ地球にやって来た。
カンザス州スモールヴィルという町に不時着した彼は、ジョナサン&マーサ・ケント夫妻に拾われる。
クラークと名付けられた彼は夫妻のもとで愛情たっぷりに育てられ好青年に育ち、自分の持つスーパーパワーを世界の平和のために役立てようと決心する。 ・・・・・それが本来のスーパーマンであるが。
もしもスーパーマンが少年期、メッタクソにひねくれて利己的な問題児になっていたとしたら・・・という着想の基に描かれる、恐怖の逆ヒーロー映画。
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カンザス州の田舎町ブライトバーン。
子供に恵まれずにいたトーリ・ブレイヤー(エリザベス・バンクス)とその夫カイル(デヴィッド・デンマン)は、ある日の夜、森の中に不時着した小型宇宙船らしき物体の中から男の赤ん坊を発見する。
二人はその赤ん坊を自分たちで育てようと決心し、ブランドン(ジャクソン・A・ダン)と名付けた。
すくすく育って、聡明で好奇心旺盛な少年に育ったブランドンだったが、彼が12歳になると反抗期の一面が顔をのぞかせるようになる。
その頃から、自分には普通の人にはない特別な力があるのだと認識していたブランドンはやがて、自身に敵意を見せたり疎ましがる者に対して力を行使し始める。
ブランドンの周囲で人が次々に無残な死を遂げていく。 息子が邪悪な存在になろうとしていることに感づいたトーリたちだが、すでにブランドンの脅威は想像を絶するものになっていた。
スプラッタ描写も容赦なくあるし、これはもう立派なホラーね。 「スーパーマン」がヒーロー映画になるかサイコキラー映画になるかは紙一重。 “クラーク・ケント”というサイコロがもし負の面に転んでいたらという設定が面白いわ。
私は空も飛べなきゃ光線も出せない。スピードも人間以上の動きはできない、ただの力持ちだ。 コイツと戦っても勝ち目はないな。
これはトラウマになるね。 旅客機をよけようという気さえない無慈悲さは恐怖でしかないね。
宇宙船から「奪え」という声が聞こえるということから、そういう意図を持った異星人が彼を送り込んできたとも考えられるがな。 ブランドンを演じるジャクソン・A・ダンの雰囲気の得体の知れなさが抜群に怖い。
「LORO 欲望のイタリア」
イタリアの元首相シルヴィオ・ベルルスコーニ。
1994年から2011年までの間、就任と退任を繰り返すこと4度。 都合9年間に渡って政権の椅子に座っていた彼は、頭のてっぺんからつま先までスキャンダルにまみれ倒した男だった。
賄賂、横領、脱税、不正経理、マフィアとの癒着、少女買春、麻薬密輸など疑惑で終わった件も含めれば、スキャンダルは山のようにある。
差別発言も日常茶飯事。 職権乱用の鬼。 病的なオンナ好き。
花見の招待客のことでワーワー言われる人などヒヨっこ同然だ。
何度失脚してもまたカムバックするほど、強いリーダーシップが国民に支持されてきた“怪物”ベルルスコーニ。
「グレート・ビューティー/追憶のローマ」の名匠パオロ・ソレンティーノはこのベルルスコーニに並々ならぬ興味を持ち、彼が我が物顔で振る舞っていた当時のイタリアに蠢いていた欲望の正体に迫る作品である。
単なる伝記映画ではなく、政治家としての側面はパスされていて、あくまでも成功と愛に飢えていたベルルスコーニの感情を掘り下げる物語である。
「LORO」とは「彼ら」という意味で、それが誰を指すのかはラストカットで明らかに。
興味深いキャラクタードラマだ。 憎まれっ子世にはばかるとはまさにこれ。 そもそもこういう奴が天下を取るように世の中は出来ている。 カネとオンナにまみれた男の酒池肉林と、執着心の強い素顔が描かれている。
汚い手を使ってでも欲しいものを手に入れてきたように見えても、奥さんの心を取り戻すことはできなかったね。 「人間的価値を認めないなら、なぜ私と一緒にいたのだ?」 「恋をしていたからよ」という会話のなんとも切ないことか。
美女をかき集めたパーティーで目を付けた女優志望の子から「あなたは祖父と同じ口臭がする」と言われて突き放される、七十老人の若く振舞おうとする姿は滑稽だ。
ベルルスコーニが出てくるのは中盤になってから。 野心あふれる実業家の男がベルルスコーニに近づこうとする物語が前半の中心になるけど、ここは正直退屈よ。 だけどベルルスコーニが登場する以降からは俄然面白くなるわ。 バカ騒ぎのあとに訪れる静寂な時間が、欲望から失望に変わるイタリア社会の衰退を表しているのね。
分からないのは、一頭の羊が部屋に入り込み、エアコンが作動して間もなくぶっ倒れる冒頭のシーンだな。 まああれこれ解釈できなくもないが。
「殺さない彼と死なない彼女」
漫画家・世紀末のTwitterから生まれた四コマ漫画の実写映画化。
「殺す」が口癖の無気力な少年と死にたがり屋の少女を中心に、不器用で純粋な高校生たちの恋や友情を描く青春ストーリー。
退屈な学園生活を送る高校三年生の少年・小坂(間宮祥太朗)は、リストカットを繰り返す“死にたがり”の孤独な少女・鹿野(桜井日奈子)がハチを埋葬するのに興味を抱き、話しかけるようになる。
そんな二人の周囲には、自分の可愛さを自覚する、きゃぴ子(堀田真由)といつも寄り添う地味子(恒松祐里)、恋愛に無関心な宮定八千代(ゆうたろう)に振られてもめげない撫子(箭内夢菜)がいた。
彼らはやがて、生きることに不器用で、それぞれの理由から諦めていた自分自身を、現実を、そして未来を愛するようになっていく。
タイトルやチラシなんかを見たら、どうせキラキラ映画だろと思うかもしれないが、やはり予告編のチェックを怠ってはいけない。 これは意外な掘り出し物の青春映画だ。
キャラクターは皆、浮世離れしてるんだけど、どの世代にもある、自分の望む人生と現実のギャップにぶち当たる想いが凝縮されている、三組のドラマが群像劇風に描かれるんだよね。 面白く、切なく、のほほんと観てたら、後半から意外な急展開。
このまさかの展開にはビックリしたな。 しかも、その先からこの映画のちょっとした時系列の仕掛けが明らかになっていく。 なるほど、そうきたかと唸る、巧妙な構成だ。
生きている以上、何かの“痛み”は誰にでもあるさ。 それでも生きていることの奇跡は美しい。 観終わった後、優しい気持ちになれる映画だね。
そうか。 じゃあ、私のことも許してくれるか? そうか、そうか、それはそれはどうもありがとう。
いや、おまえは絶対殺す。
しょうがない。 では、『地獄で会おうぜ、ベイビー』。 フッ、キマった。
ちっきしょー。 それだけは言わせないようにしてやろうと思ってたのに。
それではサラ・コナー、また会おう。 ・・・ええっと、あれ? このへんに溶鉱炉はないかな?
あるか、そんなもん。 あったら入るつもりかよ。
うん。
うんじゃねえよ。
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